ギィ…

少し、ガタのきている扉を開けると、かび臭さと汗臭さ、そして誇りっぽさとが混じった、決していい香りとは言えない匂いが 鼻の奥をくすぐって、俺は思わずクシャミをした。そういえば、3年間、ここを開ける度、クシャミをしていたなあと思い出す。 それさえも愛しく思えるほど、感慨深く…、懐かしく、切なく。 蘇る3年間の記憶、熱くなる 胸。…まあ言ってしまえば。俺は、この3年間が 大好きだった。

ロッカーの中に立てかけられていたラケットを手に取る。引退してからテニスバッグは学校に持って来なくなったので、 部活を覗きに行く時用に常にロッカーに入れておいたラケット。立海入学時に、両親にねだり買ってもらい、 何度もガットを張替え、何度もグリップを巻きなおしては、この3年間、ずっと使い続けてきた 俺の相棒。 グリップを握り締めると、色んな想いが体を巡り、胸を締めつける。―――――入学早々、打ちのめされた俺の野望。 それからは、あの鬼才(バケモノ)3人を倒すことだけを考えて強くなって。…でも、中2の夏。強いのは、あの鬼才3人だけではないと、 知った。みんなみんな倒してやろうと思って、もっと強くなって…。それでも、結局、あの鬼才3人を倒すことは、できなかった。

ふと、テニスラケットと共にロッカーに入れていたテニス部のジャージを手に取る。触り慣れた感触。見慣れた、芥子色。 ―――――…このジャージが、俺にとっての中学生活の、ほぼ全てを埋め尽くしていたような気がする。 何度負けて泣いただろう。何度勝って、笑っただろう。…俺が部長だった、去年の全国大会は、見事王者に返り咲いた。 でも、そこには…、…当たり前だけれど、あの人たちはいなかった。その時に気付いたんだ、俺にとって、あの人たちが どれだけ大切な存在だったかを、…どれだけ――――― かけがえのない、存在だったかを。 思い返せば、この3年間、あの人たちが卒業してからも、いつでもどこでも、思い出の中には、先輩達がいた。 レギュラーの人々、そして誰より――― 先輩が。…そういえば、先輩との出会いは、あの野望が崩れ去った日―――…





「クソーッ!!絶対ぇお前ら2人まとめて倒してやるからな!
 NO.1は俺だあ!!」

鬼才たちに挑み、ボロ負けしてそう吐き捨てて…、悔しさとか、恥ずかしさとか屈辱とか、色んな想いが入り混じって ぐしゃぐしゃになって、涙が出て、その場になんて、とてもいられなくて…。 俺はたまらずに走り出して、ただ どこに向かうでもなく、全速力で走った。

「っはあ…はあ…」

不意に立ち止まり、肺へ酸素を思いっきり送り込んだ。どうにか少し落ち着いて辺りを見渡すと、どうやらここは 学校敷地内の、テニスコートとは間逆にある校舎裏にまで来てしまっていたらしい。

「ッはあーっ…」

ずるずる、と壁に背をもたれ、座り込んだ。すると、走っている内にいつの間にか止まっていた涙がまた溢れだし、 頬を伝った。ボロボロ、ボロボロ……自分でも何故こんなに涙が出るのか分からずに、ただ涙を流し続けた。 そして、ふと思い出す。3人の鬼才の姿を…。そうすると更に涙は溢れてくる。悔しい。くやしいくやしいくやしいくやしい! …なれると思った。NO.1に。だって…今までずっと、NO.1だったんだから。―――でも、思い知らされた。 自分の無力、無知さを。…井の中の蛙ってのは…俺みたいなことを言うんじゃねーのかな。ハハ、俺、1つ賢くなった。
………なれない、のか 俺は。NO.1に。さっき、思わず3人まとめて倒してNO.1になる、なんて言ったけど、 倒せんのかよ、俺に?…あの、鬼才たちを?本当に?だって、あんな…あんな……強くて…、 …無理なら、いっそ… 「いたーッ!!」  「!!?」  ビクッと体を揺らし、俺は声のした方を見た。そこには、1人の見知らぬ女子。…いや、待てよ。 さっきコイツ、テニスコートにいなかったか?んであの鬼才たちと、タメ語で話してた。 …ってことは、コイツはテニス部のマネで、年上か。

「…何の用っスか?」
「キリハラくん、だっけ?いやー思いっきり走ってくもんだから思わず追いかけちゃった
 ま、フツーに途中で見失ったけど。…ハイ」
「?」

女は、汗を流し、息を切らしながら、タオルとドリンクを俺に差し出した。 条件反射で受け取ったが、ほとんど汗も引き、呼吸も落ち着いてる俺より、寧ろ女の方が必要な気がする。 何も言わずにタオルを差し出すも、「いいの。それはキリハラくんのために持ってきたの!」とつっ返された。 俺はつっ返されたタオルをしばし見つめた後、とりあえすドリンクを飲んだ。…冷たくて、おいしい。 きっとそれが、顔に出てたんだろう。女は俺を見て、ふっと微笑んだ。 ―――それと同時に、俺の体がふと熱くなった。ような、気がした。 俺は思わずタオルを女に被せた。どうやら不意打ちだったようで、女は「うわ!?」と声を出すも、抵抗なくタオルに収まった。 俺はそのまま、タオル越しに頭をぐしゃぐしゃしてみた。女は暴れながら「やめて〜」と叫ぶ。 なんだか楽しくなり、俺はやめろと言われてもやめずにぐしゃぐしゃし続けた。それと同時に、女は暴れ続けて。


「…はあ…はあ…」
「無駄に…疲れた…」
「アンタのせいでしょーが、キリハラ…」
「うるせーよ…じゃじゃ馬」
「はあ?年上に向かって…じゃじゃ馬ですってぇ?」
「あーはいはいスミマセンデシターっと」


お互いの体力が減ってきて、飽きてきた頃、俺たちは並んで壁にもたれかかって、息を整えた。 2人とも悪態を吐きながらも、顔に浮かぶのは笑顔。今ではもう、涙なんてものは枯れ果てていた。

「…ね、キリハラくん」
「ん?」
「やめたい?」
「え?―――――っ!」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。だって、この流れだし、普通分かんねーだろ? でも、考える前に、分かった。さっき、いっそやめたほうがいいのではと思ったことが、バレたってことが。そして、理解したと同時、ドクンと 胸が騒いだ。

…やめたい?なにを?部活を?…テニス、を?

「…」
「やめたいって、思ったんじゃないの?」
「お、思ってな」
「図星か」
「…」

女は、俺の顔を覗き込み、やっぱりというような顔をした。…コイツとは、今日が初対面だぞ? 何で、俺がちょっとでもやめたいって思ったことが、分かるんだよ…。 また、顔に出ていたのだろう、女はアハッと声に出し笑うと、真剣な表情をし、正面を見据え、口を開いた。

「みんなね…あの3人の余りの強さに、やめてったの。特に、上級生がね。
 考えても見てよ、入学したての1年生にレギュラーの座を掻っ攫われたんだよ?そりゃやめたくもなるよ。
 でも…諦めなかった人たちもいた。いくら下級生とはいえ、ずば抜けた強さと才能を持った人たちだから、
 年なんて関係なく尊敬して、目指そうって…そして、いつかは倒すんだって思った人たちが。
 今テニス部にいるのは、そんな人ばかりだよ。みんな挫折して…でも、諦めなかった人たち。

 …ねえ、アンタは?キリハラ」

「っえ」

「諦めるのか 諦めないのか。答えは、ひとつにふたつだよ―――――」






俺は、諦めなかった。テニス部にい続けた。そして何度も3人に挑んでは、何度も叩きのめされた。 それでも、諦めなかった。―――それは、間違いなく先輩のおかげだ。 あの日、先輩が俺を追いかけてくれなかったら。俺を諭してくれなかったら。俺は、テニスをやめてたかもしれない。 俺にとって、先輩は、恩人だ。そして――― 誰よりも、大切な人。

「お」

ロッカーを漁っていたら、先輩にもらって、いつもテニスラケットと共に置いてあったリストバンドが出てきた。 これは…俺が先輩に告って付き合いだしてからの、初めてのクリスマスにもらったリストバンドだ。 テニスをする時は絶対つけて、お守りみたいな感じだった。 次に出てきたのは、グリップ。これは誕生日に貰ったんだっけか。 使うのが勿体無くて、一度使ったきり、保管してたんだ。きっと先輩が知ったら、使え!って言うだろうけど。 他にも、筆箱や教科書、辞書―――色んなものが、あった。 俺はふと手を止めて、この

古びたロッカーに詰め込んだ3年間 を、

手で、目で、鼻で…体全部で、感じとる。 懐かしくて…嬉しくて…悲しくて…楽しくて…寂しくて。この胸を締め付ける痛みさえも、3年間の俺の軌跡。

「あーかや」
「!?…、先輩?何でここに…学校は…」
「何言ってんの、私はもう休みじゃん。知ってるっしょ?…そっちこそ、卒業式の予行練習中に何やってんの」
「いや…」

3年間を感じてました、なんて恥ずかしいこと言えるはずもなく。ただハハ…と空笑いすると、先輩は俺の後ろにあった ロッカーに目をやった。扉を開けられ、かき回された感じにぐしゃぐしゃの中身を見て、どうやら何をしていたのか分かったらしい。 先輩はふふっと微笑むと、俺の隣に立った。

「赤也ももう卒業かー…」
「そっスね」
「寂しい?」
「そりゃあ…。でも、嬉しさのが強いっスよ」
「なんで?」
「…また、先輩と同じ校舎で過ごせるから」
「…可愛いこと言うねえ」
「ちょ、俺は真剣に…!」

何だかものすごく恥ずかしくなり(顔がカーッと赤くなるのが分かる)、隣に立ってた先輩の方を向くと、 先輩も、顔が赤いように見えた。…耳も?え、あれ?

「…私も、」
「え、」
「私も…ずっと寂しかったよ、赤也」

真っ赤な顔で、先輩はそう言って、そっと、俺の指の先端を握った。 その、少しの触れ合う箇所から伝わる、先輩の温もり。酷く愛おしくて、俺はしっかりと手を握り返した。

「ねえ、先輩」
「…ん?」
「色々、あったじゃないっスか。この3年間」
「…うん」
「全国優勝とか、敗退とか、返り咲きとか…まあ、主にテニスのことっスけど」
「ふふ…うん」
「でも、やっぱり、1番の思い出っつーか、良かったことっつーか、それは…。」

先輩をもう一度見た。先輩も俺の視線に気付き、こちらを向いて、見詰め合う。 きっと言葉にしなくても伝わってると思う、お互いに。何が一番の思い出か、なんて。


先輩に会えて、よかった。…アンタがいなかったら、俺は今こうして、ここにはいねーはずだから」

「…うん」

「俺の傍にいてくれて…。ありがとう、ございます」


ぎゅっと、もう一度手を強く握った。

この温もりが、高校を卒業しても、社会に入っても……ずっと、俺の傍にいてくれますように。

もう二度と使うことのないロッカーを見て、心の中で、強く願った。





「J.H.S!」様へ(紫陽 華恋)